サンプル「こどくのしろ」



「戻りました」
 入り口で一言だけ告げ、研究室へと足を踏み入れる。
 中には人影が二つ。うち大柄な方がぐいとこちらを向くが、シュミットはその横を素通りした。そのまま、もう片方の人影へ歩み寄る。
「……首尾は」
 人影が低く尋ねる。老人の声だった。
 返事の代わりに、彼は先ほど回収したポーチの中身を、傍らの分析機の円筒に空けた。すぐに機械が低い音を立てて回り始め、次いで側の大型ディスプレイにデータが流れ出す。
「ふむ、悪くないの」
 その数字の羅列を眺め、老人は髭をひねった。
「『リミテッド』の進化速度が上がってきおった」
 爺様のご機嫌はまあまあ。まずは及第、か。心中で息をつき、彼は一礼して下がった。
「いい気になるなよ」
 彼にしか聞こえない声で大男がつぶやく。
 シュミットはふん、と鼻先だけで返事をし、相手には目も向けなかった。この男との不和は今に始まったことではない。もとから、そうなるべく定まっていた。
「カーチス、シュミット」
 不意に老人の声。二人ははっと向き直った。
 その言葉とともに、大型ディスプレイに表示される……一体の青いレプリロイド。
「イレギュラーハンター第十七部隊現隊長『エックス』――お前たちも聞いておろう。最強と名高いシグマを二度にわたって打ち倒したあのハンターだ」
 老人は言葉を切り、二人に目をやった。
「彼の現在のハンターランクは特A級とされている。しかし、最初期はBだったそうだ」
 聞いていた二人は、声にならない驚きの声を挙げた。
「B級」
 大男――カーチスが腑に落ちない様子で繰り返す。その様子を横目に収め、老人は続けた。
「そう。一介の中級ハンターが、通常のレプリロイドとしては実に不可解な能力を発揮し、あのシグマを二度も葬り去ったのだ。……つまり」
 一呼吸おき、老人は述べた。
「『エックス』は、成長するレプリロイドなのだよ」
「となると『リミテッド』同様、『エックス』は、これからもなお進化を続ける、と?」
 カーチスの問いに、老人はうなずいた。
「その可能性は大いにある。実に興味深いことだ。ワシにとっても、この計画にとっても、な」
 低く笑い、老人は続ける。
「見てのとおり、『リミテッド』の進化は軌道に乗っておる。四つともすでに第二成長期に入ったと断定してよかろう」
「では……?」
 カーチスが、にやりと問い返す。
「近々、計画の日程を前倒しする」
 老人の声は低かったが、その言葉は静かな部屋に通った。確かな緊張。それを受け流すように、老人は付け足した。
「今は下がっていい、追って指示を出す」
「はっ」
 二人が同時に退出し、ドアの閉まる微かな音。
 老人は、背後に目をやった。そこには、あの不可思議な半透明の物質。
 ただし桁違いに大きい。それが身じろぎもせず吊られている。
 中央には、生き物の顔を思わせるあのコア。
「自らの生存を懸けた、機械の進化か」
 老人……ドクター・ドップラーは、低くつぶやいた。
「目の当たりにさせてもらおうではないか」

 *  *  *

 基地を出ると、いまだ分厚い雲。
 背後にカーチスの気配を感じたが、シュミットは振り返らなかった。挑発に乗ることの愚は心得ている。
 無言のまま荒野へ踏み出す。相手が反応しかかる動き、だが構わずブースターに点火した。瞬時に気配がはるか後方へ置き去りになる。引き離してしまえば怖い相手ではない。あちらも、どうせわざわざ追っては来るまい。
 たどり着いた先は、さきほどのバスだった。
 今夜のねぐらには充分な広さだ。おまけにぐるりが窓になっており、万一の場合も楽に逃げ出せるだろう。誰にいつ寝首を掻かれるか知れないあの基地に、補給・修復と定時報告以外の用件で留まる気はもとよりない。
 ただこの身ひとつが、頼るべき砦だった。
 と、バスの内部がさっと明るくなった。目を上げると、さっき落とした屋根の穴から赤い光が差している。
 彼は横になった身を起こすと、その穴から宙へ跳び上がった。スリープに入る前に周囲を確かめておきたかった。
 そのままバスのまだ残っていた屋根に降りる。
 眼下にはただ、鉄――スクラップの平原。数代にわたって築かれてきた、それもまた文明の賜物だった。
 ちょうど切れた雲間から夕日の残照。その下、赤い残骸の荒野は地獄にも似ている。
 飛び降りる前にシュミットは、表情のないその白い目で、この世の終わりのような風景を見渡した。落日の中にあって、彼の姿もまた赤に呑まれている。
 これこそが、彼の世界だった。





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